2026/03/03 10:32

 ケチで冷酷な老人、スクルージは人間が嫌いであった。自ら営む商会の従業員には安月給を払い、貧困者や身寄りのないものへの寄付などもってのほか。自身の甥がクリスマスを祝いに来ても、憎まれ口を叩く。


  人情などはいっさい受け付けず、人を押しのけ、突き飛ばして進んで行くのがスクルージにとってはいわゆる「喜び」であったのだ(ディケンズ 2011: 11)。


 人々が聖なる夜を祝福し活気づく町を後にし、家に着いたスクルージは、7年前のクリスマスに亡くなった相棒、マーレイの亡霊と対面する。生前の行いに悔い苛まれ、鎖につながれたマーレイは死後も苦しみ続けていた。スクルージには彼のような運命から逃れるチャンスと希望があり、スクルージのもとに三人の幽霊が来るだろう。そう言い残しマーレイは闇の中へと去っていった。

 第一の幽霊、過去のクリスマスの幽霊は、スクルージを過去の世界へと誘う。スクルージには厳粛な父、そして愛すべき妹がいた。気前のいい奉公先での有意義な経験、そして富を求めすぎてしまったが故、当時の恋人が彼から離れていった過去を、スクルージは思い出す。

 第二の幽霊、現在のクリスマスの幽霊は、スクルージに現在の世界を披露する。従業員であるボブの家族は貧しいながらも幸福に暮らしており、今は亡き妹が残した甥は、スクルージに対して無償の愛を与え続けてくれていたという事実。慈愛の重要性、必要性をスクルージは目の当たりにする。

 そして第三の幽霊、未来のクリスマスの幽霊は、未来ではスクルージがこの世を去り、死して尚憎まれ、非道な仕打ちを受ける厳しい未来を突き付ける。

 こうして過去・現在・未来を旅したスクルージは心を入れ替え、紛う事なき誠意をもって人々と接することを決意するのであった。自身の従業員にプレゼントを贈り、貧しい人々を支援し、愛すべき家族とクリスマスを過ごす。スクルージは、「この古き善き都ロンドンで、誰からも愛されるよき友、よき主人、よき人となった」(ディケンズ 2011: 183)のだった。


 クリスマスを祝う行為は、非キリスト教圏に住む者からすればあまり馴染み深いものではない。大人になると、子供のころ抱いていた高揚感も薄れ、企業戦略の香りが漂う商売魂が街中を渦巻くような印象が強くなってしまった。

 産業革命は当時のイギリスに富をもたらしたが、急速な経済発展による副作用は貧富の差や犯罪率の増加(川崎, 1988)といった、現代社会にも通ずる社会問題を引き起こした。発展する都市と反比例するように人々の関心は隣人から資本へと移り変わり、従来の神への信仰も薄れ、物が社会を支配する時代になろうとしていた。主人公のスクルージはそんな物質主義的時代を生きる、ごくありふれた一人の老人に過ぎなかったのかもしれない。

 後に、「クリスマスの祝い方を知っているものがあるとすれば、スクルージこそその人」(ディケンズ 2011: 184)と言われるまで人が変わったスクルージ。人々から敬遠され、憎まれさえしていたスクルージの心を陰ながら支えていたのが彼の甥、フレッドである。スクルージの亡き妹の生き写しのようなフレッド。慈悲と博愛に満ちた、彼の作中での言動は毎年一人ぼっちでクリスマスを過ごすスクルージの凍えた心を溶かし、スクルージにクリスマスの祝い方、そして隣人と支えあって生きる人生の本質を説いたのである。


  病気や悲しみが伝染する一方、笑いと上機嫌もまた世の中でこの上なしの伝染力を振るうものである(ディケンズ 2011: 117)。


フレッドの気概が功を奏したのか、聖なる夜の奇跡か。スクルージの心奥深くに眠っていた悔恨の念とクリスマスを楽しみたいという童心が、過去・現在・未来の幽霊となって表れたのではないだろうか。

 スクルージは進んで守銭奴となり下がる道を選択したのだろうか。それとも金なくしては生きてはいけない当時の苛烈な環境が、クリスマスの祝い方も忘れてしまったような偏屈な大人を生んでしまったのだろうか。学ぶべき慈愛の心は、案外日常の些細なところに落ちていたりするものだ。『クリスマス・キャロル』は行き過ぎた商業主義に警鐘を鳴らし、幼心の大切さを思い出させてくれる作品となっている。


参考文献

ディケンズ(2011)『クリスマス・キャロル』村岡花子(訳)新潮社

川崎寿彦(1988)『イギリス文学史』成美堂