2026/03/21 20:51
中華風の店舗と水商売の店舗に囲まれた中、池袋駅北口を出たところに、焼き小籠包を食べることのできる専門店がある。厨房とカウンター席が五つほどの、小さな店だがどの料理も本場中国に劣らぬいい味をしている。
三月の三連休二日目、池袋駅周辺の路上はゴミの嫌な匂いがマスク越しでも伝わった。夕飯を済ますため母と店に入ると、ちょうど席が二席空いていた。店の奥に女性が一人、店の入り口側に二人。
隣の客と肩がぶつからないように肩をすくめながら、焼き小籠包の皮を齧り、汁を啜り、酢をかけ、火傷をしないように口の中に頬張る。
二つめを食べ始めようとすると、奥に座っていた女性が片付ける準備をしていた。横向きに机の上に置かれていた iPhone は 18:36 頃を示していたと思う。
食べ終わった皿をカウンターに手渡すと、その女性はそのまま足早に店を出て行ってしまった。
「携帯忘れてない?」
僕のその一言に、隣に座っていた母は、女性がスマホを忘れて出て行ったことを店の人に告げた。
日本語と中国語の入り混じった「お客さん!スマホ!」が店内に響いたが、女性はその声に気づくことも、戻ることもなかった。
スマホを忘れるのは困るだろう。考えるより先に足が動いていた。わずかな記憶を頼りに、店の中で見た後ろ姿と一致する女性を探した。
店の中で見た女性かどうか、確証は無かった。だが直感でこの女性だと思った。
「あの、お姉さん。」
お姉さんは周りにごまんといる、振り返るはずもないか。手の甲でダウンジャケットを着た腕に軽く触れると、火の粉を払うかの様な勢いで、その女性は触れられた右肩を払った。
(Aight bitch. )
「携帯忘れてないですか?」
その一言で初めて目が合った。感謝も世辞も期待はしていなかったが、一言も言わずに女性は店へと踵を返した。
“Fuckin’ hell.”
声に出すつもりはなかったが、つい感情が溢れてしまった。女性の後を追うように店へと戻ると、母が彼女のスマホを持ち店の前で待っていた。
その後のことは、よく覚えていない。「なぜ私のスマホを持っているの」と女性が母に詰めていたそうだが、折角の焼き小籠包が冷めてしまうのは勿体無いので、母を店の中に押し込み、食べかけの三つめの焼き小籠包に箸をかけた。
残りの焼き小籠包を頬張る間も、母は店の人と一緒に小言を言っていたが、あまりその内容は頭の中に入ってこなかった。
最大級の拒絶の具現化。ただの、潔癖症か?親切心が、一瞬で削ぎ落とされたような感覚だった。手のひらではなく、手の甲で呼び止める配慮も、彼女にとっては日常茶飯事の、filthy なナンパと同じだったのかもしれない。
「礼も言えない人なら、わざわざ教える必要もなかったじゃない。」
と、母。
「話しかけるまではどんな人か、分からないじゃん。」
後悔はしていない。ただ、込み上げてくる反吐を抑え込むように、残りの焼き小籠包を平らげた。
店を出てしばらく歩くと、しないはずのゴミの匂いがした様な気がした。